優!(ゆうじゃないよ、まさるだよ!)

気になった事、気付いた事をボチボチ書いて行きたいと思います。

親父とお袋に感謝!複数の病気を持って生まれた僕を、育ててくれて、ありがとう。

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 ど〜も、にしやん(@nishiyan_m)です。
 
 今回はちょいと重い話で、申し訳ありません。
 
 
 1971年3月23日、僕は複数の病気や障害を持って生まれてきました。
 
 生後2、3ヶ月程〜就学前まで、入退院の繰り返しでした。
 
 

生まれつきの障害持ち!

 母曰く、
 生後間も無く、オムツを替える際に、異様に泣くので、近隣の町医者さんに行ったところ、
先天性股関節脱臼
との事。
 
 そこのお医者さんが、紹介状を書いてくれ、御茶ノ水にある、
順天堂医院
に転院。
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 検査によって、複数の病状が有る事が判明。
 股関節の変形、斜頸、心臓の穴、腸の不全etc…。
 
 当時、両親は担当の医師に、
「この子は、大きくなれないかもしれません。」
と、言われたそうです。
*早期に亡くなってしまうケース。
 
 
 そこをどう乗り越えたのか、今では兄妹の中で、1番元気な「おっさん」です。
(入院中に、改造手術を受けたとか、薬物のテストケースになったのかもね(≧∇≦))
 
 
 先天性の病気、障害はある程度、成長と共に良性となり、その後は問題無く成長しました。
 

 脚の障害だけは、残ってしまいました。

 左の股関節の骨が、大腿骨の骨頭(ゲンコツ)が小さく、骨盤の受け側も、左端が欠損している為、脱臼してしまう状態。
 
 その為、幼児期は去勢用のバンドを付けていました。
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 今では樹脂製の軽量な物が主流のようですが、当時はアルミ製でした。
 
 ごつい装具を着けていたので、僕は「ハイハイ」が出来ず、ほふく前進で動き回っていたそうです。
 
 
 骨盤の欠損部、及び骨頭の修復術の為に、毎年手術を受けていました。
 
 1年のうち半年以上が病院、残りの数ヶ月が家。
 
 こんな生活が就学するまで、続きました。
 
 

家族の生活が激変!

 僕が産まれた事によって、親父はそれまでお世話になっていた、叔父さんの元から独立開業。
 
 親父は、この時27歳。
 
 そして、「病気の【優】には、郊外の方がいいだろう」と埼玉県の越谷市に家を購入しました。
 (この、家には21歳迄住んでいまいた。)
 
 
 お袋は僕の入院中、越谷から御茶ノ水の病院まで、まだ幼い兄を連れ、ほぼ毎日通ってくれていました。
 
 忙しく、時間が無くても、数十分だけでも、僕に会う為に、通ってくれたそうです。
 
 

何だって出来る!

 小学校に上がり、入退院の繰り返しは無くなり、年に数度の検査で通院する程度になりました。
 
 中高生の思春期には、脚の事でスネて、お袋に当たったりもしました。
 
 
 左脚が右脚より、3、4cm短い為、ビッコを引く、独特な歩き方でしたが、「イジメ」にあうことも無かったです。
 
 
 興味を持った事は、大概やらせてくれました。
 
 テニス、スイミング、スキー、キャンプ、ローラースケート、釣り、バイクetc…。他にインドアな趣味も多数。
 
 後に、兄に言われる、
ちょっと脚が悪いだけ
で、何だって出来ました。
 
 

歳をとるにつれ!

 その後、両親の別居、離婚。
 
 会社の倒産。実家の売却。からの1人暮らし。
 
 それまでは実家住まい、家業手伝いだった僕には、自分で稼いで生活する事が新鮮でもあり、大変さを知る事になりました。
 
 日々働いて、給料を得て生活する。
 自分1人でも大変。
 
 
 家族の為に仕事をして来た、親父の凄さを痛感しました。
 
 ましてや、病院にかかっていた僕の為に、どれだけ親父は頑張ったんだろう…。
 
 
 歳を経るに連れ、色んな経験を積めば積む程、両親に対する感謝を強く感じるようになりました。
 
 

ありがとう!

 その事を、親父と飲んだ時に伝えると、
でかくなって良かった。
 
 僕は、泣きました。
「ありがとう。」
としか言えませんでした。
 
 お袋は、
「そんな身体に産んで、申し訳ない。」
と言うのですが、この身体だから、
俺!
なんです。
 
 2人に生かしてもらって、色んな事をやって、色んな経験をして、が居るんです。
 
 親父、お袋、ありがとう。
 
 
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。にしやん(@nishiyan_m)でした。
 
 

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